天誅組 ~西田を巡る冒険

参考文献

参考文献(敬称略)

 

 

大和日記 半田門吉 河内長野市ホームページ

大和日記 松本謙三郎 早稲田大学

大和日記 土方久元編著 国会図書館デジタルアーカイブ

大和日記 維新史業書 国会図書館

 

南山踏雲録 伴林光平 2000年 保田與重郎文庫 新学社

 

会津藩庁記録 国会図書館

 

新撰組日誌 菊池明他 2013年 新人物往来社

 

榊陰年譜 加藤桜老 昭和19年 加藤桜老先生日記刊行会

 

浪士組名簿(鵜殿鳩翁写本) 小島記念館

 

草莽ノ記 天誅組始末 阪本基義 平成15年 井西印刷所

 

実記 天誅組始末 樋口三郎 昭和48年 人物往来社

 

天誅組の研究 大正6年 田村吉永 開化堂印刷所 国会図書館

 

いはゆる天誅組の大和義挙の研究 昭和6年 久保田辰彦 国会図書館

 

天誅組紀行 吉見良三 1993年 人文書院

 

天誅組 大岡昇平 1983年 岩波書店

 

実録天誅組の変 舟久保藍 2013年 淡交社

 

志士の峠 植松三十里 2015年 中央公論社

 

天誅組 その道を巡る 舟久保藍 2017年 京阪奈情報教育出版

 

新徴組の真実にせまる 千葉弥一郎原著 西脇康編著 2018年 文学通信

 

新徴組 小山松勝一郎 1976年 図書刊行会

 

山岡鉄舟 小島英記 2018年 日本経済新聞出版

 

最後のサムライ 山岡鐵舟 圓山牧田編 2007年 教育評論社

 

幕末の志士 高木俊輔 1979年 中央公論社

 

慶応四年新撰組近藤勇始末 あさくらゆう 2006年 崙書房

 

武器と防具 幕末編 幕末軍事史研究会 2008年 新紀元社

 

<遺聞>市川・船橋戊辰戦争 内田宣人 1999年 崙書房出版

 

維新前夜 鈴木明 1992年 小学館

 

攘夷の幕末史 町田明広 2010年 講談社

 

グローバル幕末史 町田明広 2015年 講談社

 

おお、大砲 司馬遼太郎 1961年 中央公論社

 

最後の攘夷志士 司馬遼太郎 1963年 文藝春秋新社

江戸の天誅組

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天誅組後日譚

 神田明神前の狼藉
 しるこ屋事件
 薩摩藩邸の志士
 慶応四年三月
 五兵衛新田の夜
 姉小路暗殺

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プロローグ

 

 

その資料を初めて見たのは、平成の終わり頃。夏の初めだった。

黄ばんだ大学ノートに、漢字かな交じりで、横書き、一行ごとにつづられていた。

きれいに整った文字で、読み解くには特段問題はなかった。

冒頭に、以下のとおり文章全体の説明があった。

 

昭和十八年九月二十日

祖母の伯父野村稲夫の記録を写す

原文は巻紙に墨書。漢字カナ交。

 

そこから、本文らしき文章が始まっていた。

 

明治三十二年一月

本日勝海舟先生葬儀の報に触れ、本文の起草を発起。

三十数年前の幕末維新激変にあたり、見聞し行動した様々を残し置べくもの也。

 

その後、文久三年、筆者が浪士組の一員として京へ出立するところから、筆者が経験した幕末の動乱が描かれている。

筆者は、明治以降は野村稲夫と名乗っていたようだが、もともとは神代仁之助が本名であるという。

姉婿が野村という医師で、その診療所を継いだことから野村の姓も継承したようだ。

幕末の一時期、西田仁兵衛という変名を名乗っている。そして、その名前で文久三年夏の天誅組の乱に参加している。

 

その文書を読了したときの、私の最初の印象は、これは回想録の体をしているが、ある種の小説ではないかというものであった。

それは、筆者が無名の人物にも関わらず、文書に登場する人々が日本の幕末史を彩る重要人物であることであったからであった

例えば、勝海舟、山岡鉄太郎、土方歳三らである。

私は手に入る限りの資料を使って、それを検証してみることにした。そして以外な事実を発見することが出来た。

 

神代仁之助は、当時壬生浪士組と名乗っていた新選組の初期メンバーの一人であった。会津藩庁記録など諸資料に出ている実在の人物である。

また、天誅組には西田仁兵衛という人物が存在したことも記録にある。

しかし、いずれも断片的な記録であった。

大和日記という天誅組参加者が事件直後に記載した記録があるが、西田仁兵衛についての記述は数カ所のみだった。しかし、西田について、ひとつだけはっきりと書かれていることがあった。それは、彼が「江戸から来た男」だったことだ。

西田仁兵衛は天誅組が壊滅した奈良県西吉野郡で死亡したとされている。現地には墓碑もあるという。

しかしながら、残された文書には、西田仁兵衛こと神代仁之助は、同じく天誅組天保高殿と二人で脱出し、江戸へ戻ったと記載されている。

そして、その後、彼は天保高殿と共に、江戸で幕末の様々な事件に関与していったという。

 

この文書を発見したのは、ささいなきっかけによるものだった。

私は、会社員として働きながら趣味で小説を書いてブログに掲載していた。もともと歴史が好きで、小説を読んだり文献を調べたりしているうちに、オリジナルな小説を書きたいとおもって始めた手慰みである。

出来栄えに自信があるわけでもないので、ほとんど友人や会社の同僚にも話したことはなかった。

たまたま、子供の学校の父兄会で飲み会があり、そのような自分の趣味について語ってしまったことがあった。

子供の同級生の母親から、妻を通じて相談があると言ってきたのは、しばらくしてからのことであった。

なんでも、その母親のおばあさんが持っている文書について見てほしいということのようだった。

私は休日にそのお宅を訪ね、母親とおばあさんと対面した。

文京区小石川地区あるその旧家は、戦後建てられた一戸建だった。もとは、自宅で診療所を営んでいたようだったが、今は営業はしていないとのことであった。おばあさんのつれあいが(婿として養子にはいっていたそうだが)、そこで開業していたという。つれあいは10年ほど前に他界し、娘は結婚して近所のマンションで暮らしている。おばあさんは独りでその家に暮らしているとのことであった。

野村律、八十七歳。昭和五年生まれ。上品な老婦人で、記憶力・理解力ともに問題なく、かくしゃくとしておられた。

大学ノートの文書は、おばあさんの兄が、第二次世界大戦中に書き写したという。

「前からその文書があることは、家族は皆、知っていたようです。ですが、巻紙に墨で書いた文章なので、誰も読んでなかったようです」

おばあさんはゆっくり話し始めた。

「兄は、子供のころからそれを読んでみたかったようです。ですが、機会がないまま、出征することになって。入営の直前に、巻紙を出してきて、ノートに書写したようです。なにか、残しておきたかったのかもしれません。自分が生きた証として」

兄は、学徒出陣し帰ってこなかったという。

出征する前夜、兄はその文書について熱く語った。

「自分の縁者が、幕末の本当に凄い有名な人たちと一緒に活躍していたなんて、とても嬉しいと言っておりました」

昭和二十年、空襲により自宅は焼け、オリジナルの巻紙は消失した。しかし、おばあさんは兄のノートだけは持ち出したという。

「まだ、戦死公報は来ておりませんでしたが、私は形見だと思っておりました」

おばあさんは少しだけ涙ぐんだ。

大学ノートについての話はそれだけだった。

しかし、おばあさんからは、その文書の本当の作者、すなわち巻紙に墨書した人物についても聞くことができた。

「私の祖母は、文久三年生まれです。江戸時代ですね。昭和十年まで生きておりました。祖母の父の野村隆之介がここでお医者さんをはじめました。幕末の頃のようです。祖母が子供の頃には、すでにここに住んでいたようです」

その家には、祖母の両親以外に、二人の男が同居していたいう。

「二人を祖母は、どちらとも「おじさま」と呼んでいたそうです」

二人のうち一人は、祖母の母の弟、すなわち、文書を書いた野村稲夫であった。

兄が亡くなったあと野村医院を継いだ。明治三十三年没。

祖母曰く、「背が高く、男前で穏やかな人物」だったそうだ。

逸話が一つだけ残っているという。

野村稲夫がすでに初老になろうという時期の話だそうだが、近所の神社で絡んで来た若者を、目にも止まらね早業でたおしたというものだ。

「見ていた祖母には何が起こったかまったくわからなかったそうです。いつの間にか相手は、仰向けに倒れていたと。伯父はすぐその男を助け起こして、笑顔で肩をポンとたたいたそうです。あいては苦笑いをしてそそくさと去っていった」

もう一人の「おじさま」は、誰かはわからないという。

祖母がまだ幼児のころ、よく遊んでもらったという話だが、小さいころのことなので、あまりよく覚えていない。ただ、そういう人が一緒にくらしていたことのみ覚えていると語ったという。

おそらく、文書の中にでてくる天保高殿という人物と思われる。

最後になって、おばあさんが一枚の写真を机に乗せた。

手のひらに乗るぐらいの小さな写真で、下の方は焼け焦げが広がっている。

焼け跡でおばあさんが見つけたものだという。

旧幕府軍と思われる軍服姿の男が二人、写っている。一人は豪快に笑っている。もう一人も笑顔だが、その表情には少し屈折した影がある。

「誰かは、わからないの。でも、なぜか、最近取り出してきては、見てしまうの」

おばあさんはいった。

 

おばあさんと娘が、私に相談したかったのは、その文書に歴史的価値があるのかどうかを調べて欲しいということだった。

私はその文書の写しを取らせていただき、精読させていただくことにした。

そして、幕末の様々な諸資料とてらし合わせて検証してみた。

その結果、文書に記載されている事象は、歴史的な事実や信憑性のある資料と大きく齟齬を生じるものではないことが確認できた。

それ以上に、この文書自体が、これまでの歴史の秘められた部分を埋めるピースのひとつであることも明らかになったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青木弥太郎懺悔録 〜 幕末放蕩侍

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青木弥太郎。幕末の江戸を代表する放蕩旗本とは知っていたものの、なんと明治まで生き残っていて、回想録まで出していたとは。

江戸生まれの弥太郎は評定所勤めの平凡な旗本であつたが、黒船来航を機に、攘夷を唱え、軍資金集めのために御用盗を始める。集めた金が四千両。その後の稼ぎも合わせると七万両もの大金を脅し取ったという。

攘夷の志も途中から投げ出し、確信犯的に、ゆすり、用心棒、詐欺などのあげく、元治元年七月奉行所に、捕縛された。

その後。十八回の拷問にも耐えて明治元年出獄したという。

仲間として、石坂周造や村上俊五郎、新徴組の浪士たちの名前も上がっている。

江戸の志士たちの中には、青木と同類のものが多数いたのだろう。

酷い話だが、妙に明るく飄々とした語り口。味のある懺悔録だった。


安土往還記 辻邦生

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既に古典だが、何度も読み直してしまう。

イタリア人の目から信長を描いた傑作。


光秀を見つめる信長の眼差し。

それは、さらなる高みへと続く「共感の眼」。

そして、西へと進む軍団をみながら、光秀は、その目から逃れるすべを考えていたのだ。


おそらく彼もまた呆然とした思いで青葉のうえに降りしきる雨を見ていたに違いない。全ては燃えつきて、そして消えなければならないのだ。


頂点へと続く信長の世の、突然の崩壊が、美しい筆致で描かれる。


謀反随一 斎藤利三

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ある公家の日記に、謀反随一と書かれた斎藤利三。それだけ、光秀の謀将として、知られていたのだろう。

蒲生氏郷の思い出話に、優れた武辺者として登場する利三。

長曾我部の織田方窓口として、光秀のみならず秀吉と長曾我部のつなぎも務めた利三。

武辺に加えて、茶の湯連歌にも堪能であったようだ。

親類の多くが幕府の要職にあったことから、私は出身は美濃では無いように思う。

一説に、三好長慶の陪臣とあるように、畿内で武者として一働きしてから、稲葉一鉄の部下となったのでは無いだろうか。

旧幕府の関係者として、光秀と思いが伝わる間柄ではなかったか。反面、美濃の一土豪の稲葉とは、合わなかったのだろう。

本能寺を襲ったまさに実行犯の利三。いろんな意味で、光秀以上の確信犯だったように思う。