江戸から来た男 小説天誅組外伝(その三)
その日、文久三年八月十七日。仁は五條の旅籠に泊まり、翌日、代官所の焼け跡等を見て回った。
仁。歳は二十五歳。黒の羽織と袴には江戸からの旅の砂塵が染みついている。当世風の細い月代。道場で鍛えた長身の体は、夏から秋の旅でさらに絞られていた。
本陣前には高札があがり、挙兵の趣旨が記されている。幕府から皇室の民に戻ることを告げ、今年の年貢を半減するという。町民らの話を聞くと、浪人たちはすでに、代官所の機能を引き継ぎ、評判の悪い庄屋をとらえたりしているという。それなりに用意周到に挙兵の準備をしていたことがうかがえた。単なる思い付きの暴徒ではない様である。
窮民には米を貸し与えることや、「天誅へ加わりたき者」は願い出ることが布告されていた。
その日の昼頃、仁は本陣の桜井寺で加盟を申し出た。
すでに、天誅組と自ら名乗っていた。
加盟にあたりなにか聞かれるのかと身構えたが、姓名と生国の記載を求められたのみであった。仁のみならず、近隣の郷士らが多数、加盟に来ているようである。
「西田仁兵衛稲夫 江戸」と署名。
仁の前には「天保高殿(てんぽうたかとの) 水戸」と記載があった。仁も、父が水戸の脱藩浪人であることから、水戸浪士とも名乗っているのだが、正直、生まれは江戸だ。
本堂の裏手へ回ると、昨日の女が、けが人の晒(さらし)を換えていた。
「あら、やっと来られましたね。待ってましたよ」
「西田仁兵衛です。よろしくお願いします」
「私は、亥生(いわお)」
仁の姉の幾(いく)に少し似ているような気がした。妊婦だからだろうか。話をしながら、てきぱきと晒を巻いていく。
「さすがに、医家の奥様ですね」
ちょうどそこに、総髪の大男が現れた。
「主人の、乾です」
頭を下げて、挨拶をした。
「西田です。江戸から参りました」
「江戸からとは珍しい。では、飯でも食いながら少し話でもしませんか」
乾は厳つい風貌とは裏腹に、率直で穏やかな人物であった。組の幹部とも、従来から昵懇にしているようであり、三人の総裁や幹部の姓名、人柄や今後の方針等、聞けばなんでも答えてくれた。
主将の中山忠光は公家の出。総裁は三人いて、土佐の吉村虎太郎、岡山の藤本鉄石、刈谷の松本奎堂(けいどう)。この中では、若いが土佐の吉村が人望があるという。
主将を総裁たちと囲んで、幹部的位置づけにあるのは、京から中山公と共に来た四十名程度の浪人で、土佐脱藩が最も多い。次いで久留米など西国の脱藩浪人が主流である。
京からの道中で、水郡善之助(にごりぜんのすけ)以下河内勢が参加している。水郡は河内の庄屋で、早くから尊王運動に取り組んで来た。また、大和からは、乾十郎のほか記録方の伴林光平(ともはやしみつひら)、平岡鳩平(ひらおかきゅうへい)、砲術の専門家である林豹吉郎(はやしひょうきちろう)らが参加していた。
皆、様々な履歴を持ち、それぞれの事情で参加しているが、ひとつ共通しているのは、自らの意思で参加していることであるという。主将の中山公からして、家出でもするように京を出奔している。他の同志たちも、誰に頼まれたわけでも無く、自発的に天誅組に加盟しているという。
「どうして、われわれの仲間になろうと思われたのですか」
「実は、安政五年に下獄しておりまして」
亡き父の古い友人という水戸藩士から頼まれ、水戸藩への密勅降下の工作に加担した。その結果、幕吏に捕縛され、半年間、伝馬町の獄につながれた。
乾は、さすがに密勅降下についても知っていた。
「戊午(ぼご)の密勅ですな。安政の大獄に連座されておられたお方とは」
「それもあって、尊王攘夷のために、自分なりになにか力を尽くしたいと考えました」
乾は、さもあろうというようにうなずいて、
「私の一生は、尊王攘夷、いや、世の中のためにささげたいと思っています。そのために、挙兵したのです。あなたのような人と、一緒に戦えることをうれしく思います」
続いて、
「ところで、昨日、五條に着かれたということは、この一挙のこと、どこかでお聞きになられましたか」
これを聞かれるのではと少し恐れていた。しかし、やむを得ない。用意していた答えを告げた。
「元笠間藩士で、長州藩に招かれている加藤有隣(かとうゆうりん)先生に、関東にいるころから懇意にしておりました。京についてから立ち寄ったところ、このたびの義挙についてうかがい、慌てて五條を目指しました」
「なるほど、加藤先生ならご存知でしょうな」
乾十郎。五條出身のこのおだやかな男が、実は、天誅組の首謀者の一人と後に知ることになった。
(続く)