天誅組 ~西田を巡る冒険

江戸から来た男 小説天誅組外伝(その四)

 

 

翌日、八月十九日、前日の京での政変が伝えられた。会津と薩摩の提携により、長州藩は失脚。大和行幸は中止となった。大和行幸を契機に義軍を立ち上げ、長州や諸藩の協力を得て、討幕を果たすという天誅組の企ては挙兵二日目にしてついえてしまった。

しかし、天誅組はすでに五條代官所を襲い、代官以下を斬ってしまった。幹部で協議した結果、徹底抗戦が決定された。いずれ討伐軍が来るだろう。十津川郷で募兵することが決まる。天誅組の本陣も、五條から十津川に向かう山上の天辻峠に移された。

仁は、天辻峠や五條を何度か伝令として往復し、忙しい日々を過ごした。乾と違って、土佐や久留米出身の幹部とは、なかなか話をする機会はなかった。ましてや、主将の中山公にはそばに近づく機会もほとんどなかった。

 

何度目かの天辻峠本陣の帰りに、池内蔵太と一緒になった。土佐の浪士。天誅組の幹部の一人である。池は五條の留守居役を命じられていたが、なにか天辻峠で打ち合わせがあったのだろう。

「江戸からきた方ですね」

人懐っこそうな表情をしている。

幹部は、大坂から堺に向かう船上で髻(もとどり)を斬った。残バラ髪を、そのまま肩までたらし、白い鉢巻を巻いている。二十五歳の仁より、いくつか年下のようだ。

「池さんですね。西田仁兵衛です。よろしくお願いします」

「仁兵衛さん。おじいさんみたいですね」

笑いをこらえている。が、不思議と頭に来ない。

「仁と呼んでください」

「仁さんですね。乾さんからも聞いています。亥生さんからも」

明るく、屈託のない若者だ。道中、いろいろと話をした。

乾十郎とは、大阪で、同藩の坂本龍馬の引き合わせで出会ったという。

「坂本さんというのは、本当に面白い人です。神戸で海軍塾の塾頭をしているのです」

桶町千葉道場の坂本といえば、江戸では知らない人の無い剣の達人。それが、いまでは黒船の操船を教える海軍塾の塾頭。しかも、その塾は幕府が創ったという。

「私が脱藩した時も、私の母に手紙を出して、私が決して間違っていないと言ってくれました。いつか、一緒に仕事をしたいと思います。でも、私は黒船は操れませんけどね」

池たち土佐の浪士の多くは、もっと直線的に幕府に立ち向かっている。今年の五月に、長州が外国軍艦を砲撃した際、応援に行っており、実戦を経験している。

「江戸ではご家族がおられるのですか」

「父は、水戸藩の脱藩浪人です。私が十歳の頃、亡くなりました。母も早世していたので、姉と二人で旗本の叔父をたよって成長しました。しかし、姉は蘭方医と駆け落ち同然に一緒になってしまって、私も含めて、叔父からは勘当同然です」

「お姉さんが、おられるのですね」

「先般、長男を出産しました」

「おじいさんではないけど、伯父さんになったわけですね」

二人で笑いながら、五條へ戻った。

 

十津川郷士の募兵については、概ね成功し千人を超える十津川郷士が参集した。

しかし、あまりにも早く集まりすぎたこともあり、兵糧の調達が間に合わない。水郡善之助が、小荷駄奉行として米の調達を進めているが、金はあっても米は潤沢には集まらない。

逆に、金は潤沢であった。五條の代官所の金が五百両。近在の富商からの献金。それに、そもそも、長州からの軍資金が数千両出ているらしい。そのような事情を、仁は乾から聞いた。

「十津川郷士は不眠不休で集まってくれていて、少しは休ませてやりたいのだが、何せ千人も来ているので、飯を食わせるのも大変らしい。高取には兵糧もあるだろう」

仕方がないので、南大和にある高取城をすぐさま攻撃することになった。ゆっくりしていると飢えてしまう。皆で、高取城を目指した。

目まぐるしい日々が続き、こうやって戦場に向かっていることが現実のようには思えない。そのような気分のまま行軍している最中に、突然、砲撃を浴びた。

高取城の城下へ向かう途中の、丘へと登る一本道。何の警戒もしていなかった天誅組に、高取藩の大砲の砲撃が始まった。不意を突かれた天誅組は、幹部も十津川郷士も一気に浮足だった。敵の砲撃は精妙で、先頭のあちこちに砲弾が着弾し、砂煙が上がる。一弾は、幹部の酒井傳次郎の兜を直撃した。が、尻もちをついた程度で、酒井は何事もなく立ち上がった。一種、滑稽な情景であった。

狼狽して十津川郷士が後退しはじめると、もう、止まらなかった。幹部も含め、一気に走り出して後退した。

これが、八月二十六日早朝の事だった。

(続く)