天誅組 ~西田を巡る冒険

天誅組余話 天誅組 西田仁兵衛という男

 

 

天誅組には、たくさんの謎の男達が参加していました。その中でも、最も謎めいた男が、西田仁兵衛です。

小説の冒頭にも記載していますが、この男には奈良県東吉野村に墓標があり、この地で戦死したとされています。しかし、明治になって生き残っていたような形跡もあります。そして、この男についての記録は極めてわずかなものなのです。

西田については、おおざっぱに次の①〜⑤のような話が伝わっています。

 ①天誅組が五條代官所を襲った直後に加盟。

 ②天の川辻の本陣が陥落した日、富貴口の守備についていた。

 ③伴林光平、平岡鳩平と、嫁越峠、前鬼を経て、大和へ脱出。

 ④天誅組壊滅の地、鷲家口では、出合橋のたもとで死んだ二名のうち一人は、

       西田仁兵衛とされている。(鷲家口には墓碑と戦死の地の碑がある。)

 ⑤天誅組三十三回忌祭文に存命者の一人、野村稲夫が記録されている。

 

検証するためにいくつかの資料を調べました。

まず、天誅組の一級資料は次の二冊。

 

大和日記(大和戦争日記)半田門吉著(天誅組幹部 久留米出身)国会図書館アーカイブ

南山踏雲録 伴林光平著(天誅組記録方 国学者 歌人)新学社 保田與重郎文庫

 

①③は、大和日記に記載があります。実は、大和日記にもいくつか異本あり、①だけのもの、①③の記述があるものとに別れます。

②は大和日記にも、南山踏雲録にもありません。大正時代に記された「天誅組の研究」(節峰田村吉永国会図書館アーカイブ)に記載があるので、口碑(いいつたえ)として残っていたのかも知れません。

西田仁兵衛の変名として、西田稲夫という名前も伝わっています。南山踏雲録の本文に西田は出てこないのですが、保田與重郎の脚注には、③に「西田稲夫が同行した」と記載されています。なので、西田仁兵衛のいなみ(正式な名前)が、稲夫だろうとされています。

そして、天誅組三十三回忌の祭文(⑤)の存命関係者の一人、野村稲夫。これが、西田と同一人物ではないかと言われています。

 

「実記天誅組始末」(樋口三郎著 昭和四十八年)という本では、西田仁兵衛と別に西田稲夫がいたことにされています。西田稲夫は、伴林光平の従者と記載されています。

「二人の西田」説です。

この本は、作者が十年かけて調べた実記となっているのですが、何処までが実記で何処からが想像なのかよくわからないところが残念です。一部、小説風の書きぶりもあります。

平岡(のちの北畠治房)の記録(史文 大正八年)に、「従者西田仁兵衛」という記述もありますが、真偽は良くわかりません。平岡はこの記録で、江戸生まれの西田が「この方面の地理に通ず(十津川の地理に詳しい)」とも書いていますが、つじつまが合っていないようにも思えます。なにか、隠しているのではとも思われます。天誅組の本隊を見限り、脱出したことの言い訳かも知れません。

そして、平岡も同行したのは西田「仁兵衛」と言っています。西田は、やはり、二人ではなく一人であろうと思います。

その他に、西田についての記録は有りません。西田がいったい何者なのか、まったく闇の中なのです。

もし野村稲夫として、生き延びていたとしたら、どのような明治を西田は生きたのでしょうか。

「江戸ノ産」と大和日記には記載されています。西田についてわかっているのは、「江戸から来た男」だったことだけなのです。