天誅組 ~西田を巡る冒険

天誅組余話 西田仁兵衛と神代仁之助

 

 

謎の男、西田仁兵衛稲夫。脱出したのか戦死したのか。一体誰だったのか。記録ではよくわかりません。わかっているのは、江戸の生まれということのみ。

何か事情があったのか。名前を隠して参加していたのか。それは何故なのか。間者なのか。だとすると、誰が、何のために。

私は、新撰組天誅組には、表裏のようなつながりがあり、そこに注目したいと思っていました。

そこで、最初は、新撰組斎藤一(さいとうはじめ)が西田ではないかという仮説を考えてみました。斎藤は江戸の出身。御家人の息子だが人を殺して京へ出奔。そこで、後から浪士組の一員として京へ来た近藤、土方らの壬生浪士組(後の新撰組)に参加しています。近藤らは、旧知の斎藤と京で出会って、入隊させたと言われています。

斎藤は、京へ先行しています。京の浪士達、京方浪士組の浪士達と、交流があってもおかしくないと考えます。

京方浪士組とは会津藩が採用を検討した京の浪士達です。会津藩庁記録に近藤ら「江戸浪士の内」「相残候人別(あいのこりそうろうにんべつ)」と並んで記載されています。名簿の中には、水郡善之助、乾十郎ら後に天誅組の関係者となった者も入っています。

また、斎藤は新撰組の生き残りとして、西田と同様、明治を生きています。

しかし、斎藤一にはアリバイがありました。天誅組が南大和を転戦している間に、平野国臣らの逮捕に出向いているという記録があるのです。西田と同一人物には出来ません。

では、他に新撰組の関係者に候補者になりそうな者がいないか。

そして、新撰組全史:新撰組のあらゆる資料をまとめた一冊に、神代仁之助を発見したのです。

浪士組七番組として江戸から京へ。壬生浪士組として京へ残留の後、江戸へ帰り、新徴組に参加。その後、新徴組を脱退し京に出没。

なんとなく怪しい上に、名前が、仁之助。

偽名を使っても、やっぱり自分だとわかるような名前を付けたいと思うのではないか。

同じ、仁という名前。きっと、「仁さん」とか呼ばれていたのだろう。仁之助も仁兵衛も。

出身は水戸とされています。が、先祖が水戸脱藩であれば、水戸浪士と名のることもあるでしょう。確か、沖田総司もそうだった。(父が白河脱藩。白河浪人と名乗っていたという。)

前にも書きましたが、京へ戻った神代は、元笠間藩士で長州藩に招かれている加藤有隣を訪ねています。おそらく、加藤は天誅組の挙兵を知っていたと思われます。

アリバイもありません。神代仁之助は以降、煙のように消えてしまいましたから。

仮説として、神代が、壬生浪士組の間者として潜入。も、ありかな。

では、その目的は。単に、天誅組の動向を探るためでもありではないか。

神代がまさにそうなのですが、この時点で、勤王、佐幕にそれほどの違いを浪士達は感じていなかったのではないでしょうか。そして、この先、どちらに転ぶのかは、わからないとも、思っていたのではないでしょうか。それが、壬生浪士組副長の土方歳三であったとしても。

その認識で、土方が、天誅組がどういう組織で、何を考え、何をしようとしているのかを探るために潜入させたという設定も、あながち外れではないのではと思います。

ちょうど壬生浪士組も過渡期にありました。天誅組挙兵の翌日、八月十八日の政変の活躍で、会津藩から新撰組の名を賜り、天誅組壊滅の数日前に芹沢鴨を暗殺して組を近藤勇の試衛館一派で掌握した。まさに、組の基盤が固まる直前の状況だったのです。

そして、神代仁之助は西田仁兵衛稲夫と名を変えて、大和五条を目指したのではないかと私は考えます。