光秀の動機は
本能寺の変の三日前でも、光秀は信長討伐を最終決断していなかった。
愛宕山に登ったその日、光秀は石見の国人福屋彦太郎に手紙を送り、毛利攻めに向かう旨、報じていた。おそらく、まだ、迷っていたのだろう。でなければ、不要不急の手紙をわざわざ書くこともなかっただろう。
しかし、翌日、信長が息子の信忠とともに少ない手勢で京に入ったことを知った。
そう、それこそが謀反の理由だったのかもしれない。
さまざまな謀反の理由があっただろう。野心であり、遺恨であり、朝廷の意思や、四国政策、斎藤利三の処断。領地丹波の国人に対する信長の四国攻めへの軍勢催促も、その理由だったのかもしれない。
しかし、最終的には、打てるという確信。これが、光秀をうごかしたのだろう。