プロローグ
その資料を初めて見たのは、平成の終わり頃。夏の初めだった。
黄ばんだ大学ノートに、漢字かな交じりで、横書き、一行ごとにつづられていた。
きれいに整った文字で、読み解くには特段問題はなかった。
冒頭に、以下のとおり文章全体の説明があった。
昭和十八年九月二十日
祖母の伯父野村稲夫の記録を写す
原文は巻紙に墨書。漢字カナ交。
そこから、本文らしき文章が始まっていた。
明治三十二年一月
本日勝海舟先生葬儀の報に触れ、本文の起草を発起。
三十数年前の幕末維新激変にあたり、見聞し行動した様々を残し置べくもの也。
その後、文久三年、筆者が浪士組の一員として京へ出立するところから、筆者が経験した幕末の動乱が描かれている。
筆者は、明治以降は野村稲夫と名乗っていたようだが、もともとは神代仁之助が本名であるという。
姉婿が野村という医師で、その診療所を継いだことから野村の姓も継承したようだ。
幕末の一時期、西田仁兵衛という変名を名乗っている。そして、その名前で文久三年夏の天誅組の乱に参加している。
その文書を読了したときの、私の最初の印象は、これは回想録の体をしているが、ある種の小説ではないかというものであった。
それは、筆者が無名の人物にも関わらず、文書に登場する人々が日本の幕末史を彩る重要人物であることであったからであった
私は手に入る限りの資料を使って、それを検証してみることにした。そして以外な事実を発見することが出来た。
神代仁之助は、当時壬生浪士組と名乗っていた新選組の初期メンバーの一人であった。会津藩庁記録など諸資料に出ている実在の人物である。
また、天誅組には西田仁兵衛という人物が存在したことも記録にある。
しかし、いずれも断片的な記録であった。
大和日記という天誅組参加者が事件直後に記載した記録があるが、西田仁兵衛についての記述は数カ所のみだった。しかし、西田について、ひとつだけはっきりと書かれていることがあった。それは、彼が「江戸から来た男」だったことだ。
西田仁兵衛は天誅組が壊滅した奈良県西吉野郡で死亡したとされている。現地には墓碑もあるという。
しかしながら、残された文書には、西田仁兵衛こと神代仁之助は、同じく天誅組の天保高殿と二人で脱出し、江戸へ戻ったと記載されている。
そして、その後、彼は天保高殿と共に、江戸で幕末の様々な事件に関与していったという。
この文書を発見したのは、ささいなきっかけによるものだった。
私は、会社員として働きながら趣味で小説を書いてブログに掲載していた。もともと歴史が好きで、小説を読んだり文献を調べたりしているうちに、オリジナルな小説を書きたいとおもって始めた手慰みである。
出来栄えに自信があるわけでもないので、ほとんど友人や会社の同僚にも話したことはなかった。
たまたま、子供の学校の父兄会で飲み会があり、そのような自分の趣味について語ってしまったことがあった。
子供の同級生の母親から、妻を通じて相談があると言ってきたのは、しばらくしてからのことであった。
なんでも、その母親のおばあさんが持っている文書について見てほしいということのようだった。
私は休日にそのお宅を訪ね、母親とおばあさんと対面した。
文京区小石川地区あるその旧家は、戦後建てられた一戸建だった。もとは、自宅で診療所を営んでいたようだったが、今は営業はしていないとのことであった。おばあさんのつれあいが(婿として養子にはいっていたそうだが)、そこで開業していたという。つれあいは10年ほど前に他界し、娘は結婚して近所のマンションで暮らしている。おばあさんは独りでその家に暮らしているとのことであった。
野村律、八十七歳。昭和五年生まれ。上品な老婦人で、記憶力・理解力ともに問題なく、かくしゃくとしておられた。
大学ノートの文書は、おばあさんの兄が、第二次世界大戦中に書き写したという。
「前からその文書があることは、家族は皆、知っていたようです。ですが、巻紙に墨で書いた文章なので、誰も読んでなかったようです」
おばあさんはゆっくり話し始めた。
「兄は、子供のころからそれを読んでみたかったようです。ですが、機会がないまま、出征することになって。入営の直前に、巻紙を出してきて、ノートに書写したようです。なにか、残しておきたかったのかもしれません。自分が生きた証として」
兄は、学徒出陣し帰ってこなかったという。
出征する前夜、兄はその文書について熱く語った。
「自分の縁者が、幕末の本当に凄い有名な人たちと一緒に活躍していたなんて、とても嬉しいと言っておりました」
昭和二十年、空襲により自宅は焼け、オリジナルの巻紙は消失した。しかし、おばあさんは兄のノートだけは持ち出したという。
「まだ、戦死公報は来ておりませんでしたが、私は形見だと思っておりました」
おばあさんは少しだけ涙ぐんだ。
大学ノートについての話はそれだけだった。
しかし、おばあさんからは、その文書の本当の作者、すなわち巻紙に墨書した人物についても聞くことができた。
「私の祖母は、文久三年生まれです。江戸時代ですね。昭和十年まで生きておりました。祖母の父の野村隆之介がここでお医者さんをはじめました。幕末の頃のようです。祖母が子供の頃には、すでにここに住んでいたようです」
その家には、祖母の両親以外に、二人の男が同居していたいう。
「二人を祖母は、どちらとも「おじさま」と呼んでいたそうです」
二人のうち一人は、祖母の母の弟、すなわち、文書を書いた野村稲夫であった。
兄が亡くなったあと野村医院を継いだ。明治三十三年没。
祖母曰く、「背が高く、男前で穏やかな人物」だったそうだ。
逸話が一つだけ残っているという。
野村稲夫がすでに初老になろうという時期の話だそうだが、近所の神社で絡んで来た若者を、目にも止まらね早業でたおしたというものだ。
「見ていた祖母には何が起こったかまったくわからなかったそうです。いつの間にか相手は、仰向けに倒れていたと。伯父はすぐその男を助け起こして、笑顔で肩をポンとたたいたそうです。あいては苦笑いをしてそそくさと去っていった」
もう一人の「おじさま」は、誰かはわからないという。
祖母がまだ幼児のころ、よく遊んでもらったという話だが、小さいころのことなので、あまりよく覚えていない。ただ、そういう人が一緒にくらしていたことのみ覚えていると語ったという。
おそらく、文書の中にでてくる天保高殿という人物と思われる。
最後になって、おばあさんが一枚の写真を机に乗せた。
手のひらに乗るぐらいの小さな写真で、下の方は焼け焦げが広がっている。
焼け跡でおばあさんが見つけたものだという。
旧幕府軍と思われる軍服姿の男が二人、写っている。一人は豪快に笑っている。もう一人も笑顔だが、その表情には少し屈折した影がある。
「誰かは、わからないの。でも、なぜか、最近取り出してきては、見てしまうの」
おばあさんはいった。
おばあさんと娘が、私に相談したかったのは、その文書に歴史的価値があるのかどうかを調べて欲しいということだった。
私はその文書の写しを取らせていただき、精読させていただくことにした。
そして、幕末の様々な諸資料とてらし合わせて検証してみた。
その結果、文書に記載されている事象は、歴史的な事実や信憑性のある資料と大きく齟齬を生じるものではないことが確認できた。
それ以上に、この文書自体が、これまでの歴史の秘められた部分を埋めるピースのひとつであることも明らかになったのであった。