天誅組 ~西田を巡る冒険

天誅組余話  新撰組 神代仁之助という男

 

 

神代仁之助(かみしろじんのすけ)を私は、新撰組全史という本から見つけました。ただ、西田や天保と比較し、その名前はよほど知られています。なぜなら、新撰組(正確に言うとその前身である壬生浪士組)の初期のメンバーの一人であったからです。例えば、ウィキペディアにも彼の名前でひとつの項目があるほどです。

神代は、浪士組七番組の一人として江戸から京へのぼり、壬生浪士組として京へ残留、根岸派の一人ではないかと言われています。

近藤、芹沢が壬生浪士組の主導権を握り、根岸一派が壬生浪士組から排除されるのと同時に、京を離れ江戸へ戻り、根岸らとともに江戸で新徴組に参加しています。

しかし、彼はその年の六月に新徴組を脱退しています(翌年という説もあります)。

そして、何故かその年の七月、単身、京を訪れています。

但し、結果として彼の消息はそこまでです。浪士組に入る前の、そして、この上京の後の、彼の記録はまったく無いのです。その意味で、彼もまた謎の男の一人と言えるでしょう。

そして、京での彼の最後の記録は、笠間藩士で長州藩に招かれている加藤有隣を訪ねたものです。加藤の日記には、長州討幕派の筆頭久坂玄瑞(くさかげんずい)の名前も頻繁に出ています。おそらく、加藤は天誅組の挙兵を知っていたと思われます。

加藤から、義挙のことを聞き、参加すべく大和を目指した。とも考えられるのではないかと私は思います。

加藤の日記には、神代について「五六年前幕府へ幽囚の人物也」と、書き込みがあります。これが、神代の前半生についての唯一の消息です。

なお、神代の名前の読み方ですが、会津藩庁記録に「上城順之助」という当て字の記載もあり、「かみしろじんのすけ」の読みで間違いないように思います。

また、浪士組名簿の鵜殿鳩翁の写本には、神代について「常州水戸 神代仁之助 歳二十五 」とのみ記載されています。