天誅組 ~西田を巡る冒険

新撰組と天誅組

唐突ですが、天誅組のブログを始めます。

天誅組~西田を巡る冒険」

副題は、おいおい説明いたします。

まず、天誅組ですが、知っている方は少ないのではないかと思います。
ですので、皆さんの良く知っている新撰組の話から、始めたいと思います。

新撰組が結成されたのは文久3年3月。
会津藩預かり」として結成され、結成当初は「壬生浪士組」と言われていました。
近藤、土方、芹澤鴨ら、結成時のメンバーは、幕府が江戸で集めた浪士組として京へ上りました。
が、浪士組の方針に反し、京に残留することになりました。
その際、会津藩が彼らをスカウトし、藩外の協力機関「壬生浪士組」として結成されたのです。

会津藩庁記録というものが残されています。会津藩の京での活動を記録した資料です。
これの文久3年3月15日に、「江戸浪士の内ここ元へ相残候人別」として、芹澤を筆頭に壬生浪士組の創設メンバーの名前が並んでいます。
注目すべきは、彼らと並んで「京方浪士組」というメンバーが同じところに記載されていることです。
どうも、会津藩は当時、近藤や後の新撰組のメンバー以外に、京に参集していた浪士達もスカウトの対象としていたようなのです。

そして、その「京方浪士組」に、このブログの主役である天誅組のメンバーが数人名前を連ねているのです。
乾十郎、水郡善之助らです。

結局、会津藩は「京方浪士組」を採用しませんでしたし、「京方浪士組」もただの冷やかしだったのかも知れません。
ただ、ひょっとしたら、後の新撰組のメンバーに天誅組のメンバーが加わっていた可能性があったと思うと、少し、面白いなと思ってしまいます。
当時、京に参集していた浪士達に、明確に尊王や攘夷、佐幕が鮮明に意識されていたかというと、そうでもなかったのかもしれません。会津藩が「京方浪士組」にも声をかけていたこと自体がそれを物語っているようにも思います。
この話は、大岡昇平氏の「天誅組」にも記載されていますが、新撰組天誅組の創設前の挿話として、面白いので、第一回のテーマとさせていただきました。

引き続きよろしくお願いします。