天誅組 ~西田を巡る冒険

江戸から来た男 小説天誅組外伝(その一)

 

 

奈良県東吉野郡鷲家口に、「天誅組志士西田仁兵衛先生戦死之地」と記された石碑がある。

この地は、幕末の浪人集団である天誅組(てんちゅうぐみ)が最後の突撃を行い、壊滅した場所である。

文久三年八月、突如、天誅組は大和五條の代官所を襲った。孝明天皇の大和行幸に先立ち、討幕の義軍を立ち上げる。これが、彼らの企てだった。

だが、代官所襲撃の翌日、京で政変があり。大和行幸は中止。単なる反乱軍に陥った彼らは、約四十日にわたり大和各地で幕府の討伐軍と戦闘。ついには壊滅した。

明治維新の五年前のことである。

西田仁兵衛稲夫は、天誅組本陣の天辻峠が陥落した際にも、最前線で戦っていたという。激戦地での死とあわせて、凄腕の剣客という残影のみが残っている。

しかし、この男についての確かな記録は、ほとんど無い。謎の人物とされている。

天誅組幹部、半田門吉が書いた「大和日記」には、五條代官所を襲った直後の加盟者として、西田仁平(仁兵衛)の名前が記されている。別途、天誅組記録方の伴林光平が、十津川から奈良まで脱出した際に、西田仁兵衛が同行したことも記録されている。

西田についての公式な記録は、これのみといっても過言ではない。

伴林光平は、幕府方に捕縛されたのち、奈良奉行所の獄中で「南山踏雲録」を執筆している。この書に西田についての記述はいっさい無い。伴林があえて西田のことを書いてないのだとすると、何故という疑問も生じる。

さらに、天誅組三十三回忌が明治になって行われた際、生存している関係者の一人として野村稲夫という名前が記録されている。あるいは、これが西田仁兵衛稲夫と同一人物なのかもしれない。

脱出のうわさに加え、存命の記録。密かに生きのび、明治を生きたのか。

天誅組には、偽名で参加していた者も、多かったと言われている。

西田仁兵衛稲夫。実在はしていたが、その素性は一切知れない。

ただ、その男は江戸から来たという。それだけは記録に残っている。

 (続く)