天誅組 ~西田を巡る冒険

新撰組と天誅組(その2)

第二回も新撰組の話題で行こうと思います。
壬生浪士組と称していた、芹澤、近藤らは、八月十八日の政変での働きが認められ、会津藩松平容保から、新撰組の名をいただくことになりました。
八月十八日の政変は、会津藩薩摩藩が結託して起こしたクーデターで、それまで御所を牛耳っていた長州藩と長州系公卿を、御所から追放した事件です。
事件に先立つ文久3年8月12日、大和行幸の詔がだされ、行幸に乗じて大和で挙兵を企てる天誅組の幹部は、8月14日京を出発し、大坂、堺を経て、八月十八日の政変の前日、8月17日の夕刻、五條代官所を襲いました。
政変については、天誅組新派の平野次郎や古東領左衛門らが、五條へ一報を入れました。(平野は天誅組を諫めに行っただけで、実際は古東が一報を入れたようです。また、平野と古東は帰京しましたが、平野に同行した安積五郎と池田謙二郎はそのまま天誅組に加盟しました。)
一日違いで、事を始めてしまった天誅組は、その後、高取城、天辻峠、鷲家口など転戦し、9月末までに壊滅しました。
その間、新撰組は、9月16日(18日とも)、芹澤派を組内で粛正し、近藤派で組を掌握します。まさに、天誅組が活動している間に、新撰組は隊の基盤を作ったと言っても過言ではないでしょう。
また、8月末には、新撰組永倉新八斎藤一が、平野の逮捕に赴き、平野は逃がしますが古東を逮捕しています。

その年の3月、会津藩庁記録に仲良く並んで記載されていた浪士たち。ここで完全に表裏に立場を分けることになったのですね。
このように、皆さんがよくご存じの新撰組天誅組には、時期的にも重なりや接触が実はあるので、第二回として紹介させていただきました。
私は、実は、それぞれの隊士が、どこかでクロスオーバーしていると楽しいなと思っていたりもします。