天誅組 ~西田を巡る冒険

江戸から来た男 小説天誅組外伝(その十三)

 

 

翌朝、仁は、十津川郷士との最後の交渉に行くという乾十郎と伴林光平(ともはやしみつひら)の護衛として、風屋(かぜや)村に向かった。伴林は大和の国学者歌人天誅組では記録方。なぜか、平岡鳩平(ひらおかきゅうへい)もついてきていた。法隆寺の寺侍で、伴林光平の古くからの友人という。

結果のわかったむなしい交渉の後、伴林と平岡は、脱出路の偵察に行くという。乾が、仁に護衛に行ってくれという。深瀬繁理(ふかせしげり)という十津川郷士が案内に立った。乾は、交渉の結果を記した書面を中山公に届けるという。風屋村の寺の前で別れた。

「山の上は寒いから、これを持って行きなさい」

乾が、木綿の風呂敷(ふろしき)を仁の懐(ふところ)へねじ込む。固辞するが、

「亥生に持たされたのだ、是非、持って行ってやってください」

寺の前で、乾は、いつまでも見送ってくれた。

山道をしばらく行くと、平岡が言う、

「我々は、伊勢方面に脱出しようと思っている。もちろん、本隊のための偵察も兼ねている。いずれ、深瀬君を報告のために返そうと思っている。あんたのことは、十郎から頼まれたのだ。一緒につれて行ってやって欲しいと」

「そんな」

乾の気持ちは伝わった。「生きろ」ということだろう。加えて、仁を本隊から離しておきたいのかもしれない。不測の事態を避けるために。

仁には、本隊に戻り戦い続けたいという気持ちはあった。しかし、平岡と深瀬の話の中で「前鬼(ぜんき)」という言葉が出てきた。

なんでも、これから大峰山脈を越えて北山郷を目指す。途中、嫁越峠(よめごしとうげ)から釈迦(しゃか)が岳まで奥駈道を通り前鬼に抜けるという。山伏の乾山(けんざん)が言っていた前鬼。前鬼までは行こう。後のことは、そこで考えよう。

十津川は南に流れて熊野灘に注ぐ。十津川から大峰山脈を東に越えると北山郷に至る。さらに、そこから北上して伯母古峰(おばこみね)の分水嶺を超えると、川は北に流れて吉野川となる。仁らは北山郷方面へ出ようとしていた。

谷沿いに山道に入る。登っては下りを繰り返し、少しづつ高度を増していく。やがて、見事な滝の前に出る。笹の滝だ。あたりの山々は見事に紅葉している。伴林や平岡は、懐紙を取り出し、俳句や歌を書き付けている。滝からは沢沿いに、山道は少しづつ急峻さを増していく。

雲を踏み嵐を攀(よ)じて御熊野の果無(はてな)し山の果ても見しかな

まさに伴林の歌のとおりの山道だった。

歩いている間は汗をかくが、しばらく休むと急激に冷え込んでくる。落ち葉の間に、わずかな踏み跡がある。登るにつれて木々は少しずつ葉を落とし、足元に紅葉が敷き詰められていった。

大峰奥駈道は女人禁制だが、北山郷と十津川郷で輿入れのある時に限り嫁越峠の通行が許される習わしという。深瀬の嫁も、北山郷の白川から輿入れしてきたそうだ。

嫁越峠からは尾根道を北上する。吉野から熊野本宮まで続く大峰奥駈道。途中、山伏数人とすれ違う。

「北から下るのが当山派(とうざんは)で、真言宗醍醐寺(だいごじ)の山伏。南から上ってくるのが、天台宗本山派(ほんざんは)聖護院(しょうごいん)の山伏です」

深瀬がそう教えてくれた。奥駈道は約二十里だが、手練(てだ)れの山伏は二昼夜で踏破するそうだ。討伐軍の重囲の中、十津川郷士の使者は奥駈道を使って京から戻っている。古代から、裏の街道として機能していたのだ。

前鬼は、宿坊六軒の山伏の里である。到着した時には、すっかり暗くなっていた。

宿坊に案内され、食事を待つ間、外へ出てみた。しみいる寒さだ。乾にもらった風呂敷を首から胸にかけて巻き付けていると、山伏の乾山(けんざん)がそばに立っていた。

「待っていた」

「脱出されますか。ここからであれば、奥駈道を使って、安全に京までお連れできます」

「どうも、伴林も平岡も逃げるつもりだが、私はもう少し様子をみたい」

「今なら、伊勢方面は難しいと思いますが、なんとか大和まで抜けられるでしょう。数日遅れると、それも難しいかと」

「それより、聞いておきたいことがある」

「なんでしょう」

天保高殿のことだ。あなたのような山伏と会っているのを見た」

「当山派の山伏が、天誅組の周りをうろついていることには気がついていました。そいつの名前は、明珍(みょうちん)といいます。不用意な奴ですね。私の手下であれば許しません」

天保は、何者なのだ」

天保高殿は、高殿(こうでん)という当山派醍醐寺の山伏です。以前から、薩摩屋敷に出入りしている男です」

「薩摩の間者か。何をしているのだろう」

天誅組の動きを、薩摩に伝えているのかもしれません。ですが、薩摩は討伐軍にいるわけではありません。それにはあまり興味は無いでしょう」

「では」

「中山公にだけは、逃げられたくないのでは。長州にとっては重要な手駒です。薩摩は政変で出し抜いた長州を、少しでも弱らせておきたいのではないでしょうか」

「どこかで、襲うのか」

「放っておいても、討伐軍に捕まるかもしれません。逃げおおせるようなことがあれば、そこで牙をむくのではないでしょうか」

「本隊はどうしているのだろう」

乾山によると、もう新宮方面には紀州藩兵が来ていて、脱出は不可能。となると、いずれにしても北山郷から大和を目指すしかない。くしくも、本隊に先行して道中の様子を探っていく役回りになるのかもしれないと、仁は思った。

それを察したのか、乾山は言った。

「わかりました。つかず離れずついていきます。無理をしないで命を大切にしてください」

空には満天の星が輝いていた。風が冷たい。風呂敷を首に巻きなおしていると、端の方になにか書いてある。糸でかがって上手に文字がつづられている。

『西田仁兵衛さまへ』

反対側の端には、やはり糸で、稲穂の模様がつづられていた。

「上手いものだ」

乾山がそれを見ていった。

亥生さんだろうなあと、仁は思った。

風が強くなって、体がさらに凍えてきた。乾山はいつの間にか消えた。

 

翌日、九月十八日。白川村まで歩いて、深瀬繁理の女房の実家に泊まった。

この村で、深瀬と別れた。伴林が中山卿宛ての手紙を書いて深瀬に託した。伊勢方面に脱出すると。

運が良かったらしい。その後、伯母峰峠を越えて鷲家口までなんらの抵抗もなく到達することができた。途中、伊勢方面に出られないかと、何度か村々で聞いてみたのだが、道を知っている者や案内できる者に出会うことはなかった。

鷲家口(わしかぐち)を抜けて、平岡の地元に近い法隆寺村へ着いた。そこで平岡とは別れ、伴林の自宅のある駒塚まで来た。

何度か、引き返して本隊に合流することを考えた。ここまで来たのは、一つには伴林の体調が良くなかったせいもある。腹を壊しているうえに、脚気の発作が出て歩けなくなることがしばしばだった。仁と、途中の村で雇った人足らで、肩を貸したり、背中に負ぶったりして、何とか自宅まで送り届けた。乾に「護衛を」と言われたこともあり、途中で去るのに忍びなかったのだ。

伴林の自宅付近に着いたところで辞去することにし、伴林に別れを告げた。

「大坂から、長州を目指します」

伴林は、少し驚いたようだった。

「そうか、行ってしまうのか」

やや不安そうだった。が、いずれ平岡が迎えに来て、一緒に脱出することになっている。伴林はしばらく上を向いて考えていた。

「いらぬ心配かもしれないが・・・・・・、相談しておきたい。私は、天誅組では記録方であった。これから、天誅組の記録を書こうと思っている。安積さんたちから、あなたのご活躍は良く聞いているのだが、それを書くことが、あなたにとって良いことなのかどうかが、私にはちょっと、わからないのだ」

「というと」

天誅組の事績を、できるだけ真実に近づけて、書き残しておこうと思う。但しだ、記録を幕府方が見ることで、生きている人に迷惑になっては申し訳ない」

なるほど、どうせ偽名だ。どちらでも良いが、記録によって幕府に知られるよりも、西田仁兵衛稲夫は存在していなかったほうが、後々良いかもしれない。

「わかりました。私のことは、書かないでください。そもそも、名もなき一人の兵士です」

伴林はうなずいた。それから、大変、お世話になったと頭を下げた。

こちらも頭をさげて、伴林の家を出た。そこに、山伏の乾山が現れた。

「うまく、逃れられましたね。京へ向かいましょう」

「本隊は、今、何処に」

乾山は言いにくそうにだが、答えた。

「笠捨山を越えて北山郷に入り、伯母(おば)峰(みね)を越えようとしています。明後日にも鷲家口に着くでしょう」

そこで言いよどんだが、

「鷲家口には、彦根兵が待ち構えています。その先には紀州藩兵も着陣しつつあります」

「このままでは、帰れない。鷲家口に戻る。何とか、行く方法は無いだろうか」

「なぜです。間違いなく死にますよ」

「同志として戦った仲間たちだ。捨てていくわけにはいかない」

やっとわかった。自分で決めるのだ。自ら参加する。天誅組はそういう組織だった。

乾山はしばらく考えていたが、

「わかりました。我々のような者しか知らない道があります。それを使いましょう」

(続く)